『新修澁谷区史』では「堙滅」と記録されている。  《渋谷区鶯谷遺跡》は区民の貴重な財産です!


本投稿のタイトルにある堙滅(いんめつ)とは、うずもれて消える、消え失せる、の意味です。

 昭和46年渋谷区発行の『新修渋谷区史』は、B5判の上・中・下の3巻からなる渋谷区教育委員会編集の渋谷区の正史で、この上巻の「第1章 石器時代の渋谷」の「渋谷鶯谷遺跡」の節では以下のように記されています。

 「鶯谷遺跡の発掘調査は、鉢山中学と乗泉寺境内を含む地域が対象で遺物包含状態はこの鶯谷町周辺が比較的密集しているのであるが、遺物の包含状態を知り得たのは僅かに本遺跡のみであった」、「住居もいくつか確認されていてその竪穴住居内には特に遺物が多量に包含されていた」「これらの住居址の存在から推測すれば、明らかに代々木八幡遺跡に匹敵する規模と内容とををもった集落址であったことがわかるのである。正式の調査を下されないまま殆ど堙滅してしまったのは、極めて惜しまれる」と、あります。

 この記述を渋谷区長以下の区の上層部、教育委員会の関係者はまったく知らないまま、開発業者の意のままに破壊の許可を与えてしまったのでしょうか。

 当時の発掘時、調査団は鶯谷13・14番地に遺跡が存在することに気付かすに、鶯谷遺跡は「殆ど堙滅されてしまった」と断定し、「極めて惜しまれる」と、その失われた無念さを行間ににじませております。

 それが、今回の発掘調査で「渋谷区でも一度の発掘としては、大きな遺跡」であることが判明しました。

 そのうえ、ここには20000年前の旧石器時代のナイフと、縄文時代の竪穴住居が70棟、弥生時代の竪穴住居25棟、それに整理箱350箱以上のおびただしい土器片の出土で、渋谷区の史跡としていていされている代々木八幡遺跡をはるかに超える大遺跡群であるのです。この恵まれた地には、20000以前の旧石器時代から、縄文・弥生時代から歴史時代へとつづく、人びとの生活の痕跡が奇跡的に保存されていたのです。

 先の『新修澁谷区史』は、当然書き換えるばかりか、学術的にも文化的にも貴重な遺跡であることが判明したのであるから、渋谷区は消滅に向かう遺跡をは開発資本の手から奪い返さねばなりません。


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以下の写真は、遺跡の敷地中央には厚い鉄板が敷かれ、縄文・弥生遺跡にも鉄板の通路ができている様子です。